1  銭 夕佳

 自分の心と向き合うこと三十余時間。これまで生きてきた中で一番長く、しかし、一番短い時間だったように思える。美術の授業は、鏡に映った自分との対話の時間ではなく、それよりも深い「自分の中の、本当の自分との、心と心の対話の時間」であった。そして、このことに気づいたのは、すべて小牧先生がいてくれたからだと心底思う。
自画像を終えた今になって振り返ってみると、「先生の美術」に触れる以前の自分がいかに無知で、大切なものを欠いていたことがよく分かる。自画像を描き始めた頃、私は正直、先生のたび重なる説教を聞くだけでも内心しかめ面になっていた。先生が、現在社会のマイナスの出来事を私たちに重ねるということに対し、なぜ私たちなのか、と幾度も疑問を抱き、わずかながら反発すら感じていたと思う。
しかしながら、毎回のようにキャンバスに付け加えられる色彩豊かな色の数々、浮かび上がる自分の姿と対談していくうちに、これまでは背後からかすれて聞こえてきた先生の声がだんだんと自分の心の中に響いてくるようになった。障害物なんてなかった。純粋に、ありのまま、私の心は先生の言葉を聴いた。不思議なもので、自分の鎖国状態であった心が、いろんな角度に視線を向けられるようになると、それと共鳴するかのように絵の筆も進んでいった。無理やり出口を探そうとしていたこれまでの私ではなく、自分の奥底へ探求する私に変わっていた。同時に、キャンバスに散らばった孤独な絵の具は次第にまとまり、調和がとれるようになっていった。
先生に教わった「大切」なものを、私は自分なりに何度も熟考し、そして行き着いた答えが「心の豊かさ」であった。それは、教わってどうというものではなく、一生をかけて身につけるものであると思う。花屋で買った満開の綺麗な花ではなく、むしろ、道で拾った小さな種に似ていると思う。自分で育て、花咲くように丹念に手入れするのだ。      こうして、自分のかくありたい姿というものが見えてくるようになった。もう一人の自分と向き合う時間は、時間の経過とともに意味を増し、気がつくとあまり時間も残っていなかった。これほどまでに「私」と向き合った時間は、私にとって貴重であったのだと実感した十六歳。しかし、まだまだ足りない。学ばなければならないことはたくさんある。「先生の美の世界」に触れ、キャンバスの中の自分も微笑んでいると思う。