10 山本彩夏
六月の梅雨の時期になると、私は毎年思い出すことがある。それは、五年前になくなった曾祖母のことである。九十四歳の大往生であった。自分のことは、自分で何でもする気丈な人で、私もよく世話をしてもらった。五年前の私は「素直でよい子」とほめられていた。しかし、実際は親の言ったことを聞いているだけの人形だった。学校へ毎日行き、よい成績を残すことが全てだった。そのため私は平日だった曾祖母のお葬式に出席せず、学校へ登校した。そしてその日は、何というめぐり合わせだろうか、よりにもよって私の誕生日だった。母は「おばあちゃんは彩夏の中にいるのかもね。」といったが、私はそれを聞くのがつらくて仕方がなかった。そして、それ以上に、間違ったことをしてしまったという、完ぺき主義から来る自責の念に、来る年も来る年も駆られている。
今年も梅雨が近づこうとしていた頃、小牧先生から、祖父の葬式の菊の花を描いた少年のお話をお聞きした。私は自分との違いを突きつけられ、初めて心から悪いことをしてしまったと感じた。おかげで五年たった今、自分のあのときの判断は誤ちだったと認めることができた。又、先生がそれ以外にもその時々のニュースについての考えや、私達のまちがったことを本気で叱ってくれるのを見て、自画像を描くときは思いっきり挑戦してみよう、先生を信じようと思った。
それは、線からはみ出した絵の具を拭ってばかりいた私にとって、初めて美術に自由を感じた瞬間だった。毎回、毎回ただ黄色を塗った。日展が迫ったある日、先生は私に「黄色が生だなあ」とおっしゃり、私の筆をとった。「地味な色だな」先生の動かす筆を見ながら私は思った。だが、私は授業後、遠くから自分の絵を見て、考えを改めた。“金色”という単語がふと頭に浮かんだ。あの地味だと思っていた黄色が何と美しく、私の塗った部分の軽いことだろう。私は先生をさらに尊敬すると共に、先生を信じきれていなかった自分を恥じた。
その後日展の先生の絵を拝見した私は、黄色の中にも、緑がかったものや赤味が多いものなど、たくさんの色を加えた。描いてはけずり、気がつくと二箱目の絵の具もなくなっていた。その中には絵に合わない、まちがった色もあったが、一心不乱に塗っていると、その色もだんだんと馴染んでいた。三十時間もの間、真剣に向き合った分だけ、いつも絵は応えてくれた。そして、何度も何度もまちがったことが絵に深さを持たせるように、人生でもまちがいが人に深さを与えるのだという、自分なりの考えにたどりつくことができた.曾祖母への罪が消えることはないが、そのまちがいを胸に刻み、翼工房の意志を継ぐ、懐の深い人物になることで孝行したい。