20 吉田彩見

「自画像は本人を表す」と、先生はおっしゃった。とっさに私は、まさか!と思ってしまった。自分で言うのもなんだけれど、この自画像は綺麗に描きすぎた気がしてならなかったからだ。綺麗に描きすぎた、ということは、本物の自分よりも鼻を高く描いてしまったとか、目を大きく描いてしまったとか、そんなことではない。ううん、なんと言えば良いんだろう。空気というか、雰囲気というか。そういった類のものだ。決して意図して綺麗に描いたわけではない。けれど、もし本当の私により忠実に描いたとしたら、きっともっとどろどろとした自画像が出来あがると思うのだ。太宰治『人間失格』で主人公の葉蔵が描いた「お化けの絵」。そんな感じの、他人への畏怖と自分への恐怖と他にも自信の無さや妬みや、生きていくだけで精一杯の、余裕の無さが表れた絵になりそうな気がしてならない。未来は分からないけれど、少なくとも『今の私』を忠実に再現した自画像ならばそうなるはず。そう思って、一旦筆をおいて再度絵を眺めてみた。
私の好きな、淡いパステルカラーで彩られたキャンバスが目に入ってきた。ふと、この自画像は決して『今の自分』を忠実に表したものではないけれど、かといって『今の自分』と全く無関係なものでもないのだなぁ、と思った。当たり前のことかもしれない。だって『今の自分』がこの自画像を創っているのだもの。けれどそのとき初めて、気づいた。気づくことが出来たのは、まだ描き始めたばかりのときの自画像と今の自画像の色彩を比べてみたから。描き始めたばかりのときの自画像は、単調で生真面目で四角張っていて、なんだか見ているだけで息苦しくなるような絵だったような気がする。そんな鏡の表面だけをうつしとったような無味乾燥な絵に比べて、完成した自画像は少しは面白みが出てきたのではなかろうか。
自画自賛かもしれないが。入学してからの約一年間、楽しかったことや辛かったことがそれこそ数え切れないほど沢山あって、それらの出来事とその時の自分の気持ちが全て絵に現れた感じだ。桃色と黄色と黄緑と青色が混ざってようやく背景が出来上がった。それからこの自画像は、人の気持ちだけではなく、自分の気持ちにも鈍い私にとって、その時々の状態を知るのに丁度良い指針となった。この自画像に費やした時間は100時間という、なんだか天文学的にさえ思える、こんな長い時間をかけて、一つの絵に取り組んだのは初めてだった。無駄にしてしまった時間も、おそらく数時間ほどあるだろうけれどきっとほとんどの時間はきちんと自分のものに出来たはずだ。
 物事を客観的に見ることがきわめて苦手な私は、自分の絵が上手いのか下手なのか判断することは出来ない。けれど、きっとこの絵は一生の自分の宝になると思う。小牧先生、一年間ありがとうございました。