23 片倉 元

僕は、いままで美術というものを誤解していました。「線をはみ出さずに色を塗っていくという中学校の美術」が本物の美術であると思っていた自分が今になると恥ずかしくて思わず狼狽してしまいます。「先生の美術」を受けるまでは美術というものがこんなに奥深いと感じたことさえありませんでした。今は、美術は決して終わりの無い自分自身との戦いというような気がします。長いようで短かったこの約三十二時間自画像を描いてきたわけですが、こんなにも貴重に感じた時間は今まで生きてきた人生の中で初めのような気がしてなりません。
今まで僕は自分の意志がほとんど無く、水が低いほうに流れていくような人生を送ってきました。ですから、当然自分自身のことなどは全くと言っていいほど気にもかけていないし、向き合う気も無かったし、先生が最初のころおっしゃったとおり勉強さえできれば後はどうでも良いという考えでいました。周りの人にも本当のことをそのままストレートに言ってくれる人はほとんどおらず、言ってくれたとしてもそのまま受け入れることはできませんでした。でも、先生は違いました。思ったことをストレートに言ってくれました。最初は正直受け入れることなんてできませんでしたが、不思議なことにいつの間にかありがたく感じられてきました。
先生が鏡を見て本物をよく見なさいとおっしゃったとき僕は最初、なぜか素直に鏡をのぞきこむという簡単な行為ができませんでした。今まで自分のことを素直に見つめるどころか自分自身から目をそむけてしまっていたからかもしれません。次第に授業が進んで絵がだんだんと描きあがっていくとともに、先生の言葉がとても深く重く感じられるようになり、BGMのジョージ・ウィンストン曲がとても心安らぐものになっていきました。
そこでふと描きかけの自画像を見ると毎回違う表情をかもし出している感じがしました。まるで、そのときの自分がそのまま移っていくように自画像は日によって別の雰囲気だったのです。いつしか、壊してまた構築することの楽しさを感じました。保守的になって自分から行動を起こさなければ何も変わらない、失敗しても立ち直っていけばいい、それはまるで人生のようだと思いました。先生がはじめて「人生とは一枚の絵のようなものだ」とおっしゃったときには何もわかりませんでしたが、今ならとても良く理解することができます。
 4月にはじめて先生に出会ったとき、そのときは訳も分からずスケッチブックに書いた言葉が今ではとても重く感じられます。自画像制作を通してたくさんのことを学びました。いまでは翼工房で学ぶ前の自分がなんと無知で教養がなく無頓着であったのかと恥ずかしくなってしまいます。
 自画像に筆を入れるのはもう終わってしまいましたが僕の絵はまだ完成に至ってはいません。本当の自分探しが終わることの無いように、毎日違う自分がいる限りこの絵は未完成だと思います。先生のおっしゃっていた「一流」になることができたときこそ、完成と呼んでも良いのではないかと思います。僕はこの自分自身の完成に向かって羽ばたいていきたいと思います。それは永遠に終わらないかもしれません。でも、自分自身を信じて羽ばたいていきたいと思います。