32 鈴木 慧
腐敗した体制、惰眠をむさぼる一般大衆、そしてじわじわと増加する債務、ニート、高齢者。私はまさに、これら現代社会の病巣に正義のメスを入れてゆく医者になる為に、土浦一高への進学を決めた。だがその土浦一高の、それも特に美術室、いや’’翼工房’’で小牧先生の指導の下、およそ半年に渡って自画像という難しい課題に取り組んだ。その私が、今なおその考えを全く変えずに維持しているのかと問われれば、それは否である。
「ハイソサエティーにカテゴライズされる人々が好みそう」。私が美術を選択した理由は、今思い出せる限りではそれだけである。それだけ、たったそれだけの薄弱な根拠によって立つ決定が、私に大きな変革をもたらすなどとは全く考えてなかった。私がそのことに気付くのはもっとずっと時系列を下った先でのことになる。
カレンダーは9ないし10月。新生活の熱も冷め、夏休みという名の宝玉をもすり潰した私に、「美術とは何であったか」と問われれば、それは退屈さの権化であった。筆は進まず、心は弾まず、油壺の油が精神の潤滑油と化すことはついぞ無かった。重ねて言うが私は退屈だった。そしてそんな時、ある少年―私と同じ美術選択者―の話を聞いた。
実にバカバカしいと思った。「自転車で東京へ?」無駄だと感じた。一生モノの勉強のことなど考えようともしなかった。無為だと考えたから。後日、その’’彼’’と会い、少しだけにせよ彼との交流を持った。実にバカバカしいと思った。彼は人間的魅力にあふれる人間だった。立っているステージが違った。
何が違っていたのか。それは謙虚さだと思った。彼は自らが命じられたわけでもないのに、あえてそれをした。翻って私は、己へと向けられた警句にも耳を傾けず、ひたすら否定と言い訳とを先行させてきた。そのツケの領収書が、このザマである。
今、私は小牧先生、翼工房、そして’’彼’’に感謝している。私の内面の変革の契機となってくれた恩人達に感謝している。だが彼らは私ではない。私がこれから見るべき真実、私がこれから容れるべき言葉、そして私がこれから取るべき道を決めるのは、決められるのは、私である。そして私はとるべき道を決めた。私は社会の闇にメスを入れる医者ではなく、日本というカンバスに美しい絵を描く画家になるのだ。