37 安井 喜菜
美術では、人が敷いてくれるレールなどありません。人が作った模倣など何の価値もありません。全て自分で作り出す以外は無いのです。それが初めはひどく億劫でした。
初め、キャンバスに置く色は全て、生の絵の具を使っていました。その方が落ち着いたからです。どうして私は生の絵の具を使いたくなってしまうのかと考えているうちに、あることに気付きました。それは、私が、人の敷いたレールの上を歩むことに慣れきっているということでした。人の言う通りに、なんとなく行動していれば、大抵の事は「当たり障りなく、無難に」できます。しかしそれは、自分で考えるという行為を妨げます。「自分で考えて、自分で行動する力」思えばこれが、私にはひどく欠落している部分でした。だから人の作ってくれた、生の絵の具の色を使うことで安心してしまったのでしょう。
しかしキャンバスに向かっているうちに、むしろ生の色の方が奇妙に感じ始めました。鮮やかすぎるのです。落ち着かないのです。描いているうちに「自分の色」を考え始め、自画像とは、ただ表面を写すのではなく、精神を描くものではないのかと気付きました。そこから、自分だけの表現は無いものかと試行錯誤を繰り返しました。時には臆病になり、手が止まったり、焦燥にかられて無思慮に色を重ね、絵を壊したりしました。それでも、心で思い描いた世界はなかなか表現することができませんでした。心から湧き出る色の泉。それをすくおうとするのに,すくった色は手からボタボタとこぼれ落ちて、結局ほんの一握りの色しか得られないのです。心で思い描く通りに描きたいのに、心から現実へと運ぶ過程で、色は変色し、思い描いていた世界は遠く離れていってしまいます。心の世界を描き上げるには、私の技術は足りなさすぎました。
途中、私は人の目を気にして,自分を見失いました。というのも、小牧先生に一度ほんの少し褒めて頂いた箇所があったもので、有頂天になっていたのだと思います。やっと少しはましになったはずの絵は、ぐにゃりとつぶれ、もはや修復不可能かと思われました。人の目を気にし、褒められることを求めてはいけなかったのです。
最終的に、この様な形になったものの、お粗末なものだということはすぐにお分かり頂けるかと思います。こんなにも苦しんで絵を描いたのは初めてでした。私は自画像を描くことを通して、芸術の技能の向上というよりは、精神的に大きく成長できたと思います。私の、私たる個性を考えさせてくれました。最後に、この貴重な機会を与えて下さり、ご指導頂いた小牧先生に、改めて感謝致します。