42 平塚 一茂

 いかに本物らしく見せるか。これが、翼工房で絵を学ぶ前、いや、自分自身と向き合う前までの僕にとっての絵を描くということの全てだった。翼工房へやって来て初めて描いた自分の作品は、今までの絵に対する先入観を捨てきれない一方で、先生のおっしゃる、自分にとって何もかもが新しい絵を描くということの意義に困惑していた。二つの葛藤した気持ちを終始胸に抱いて毎時間を過ごしていると、「卓上の静物」のはずが「荒海の上に漂う静物」になっていた。自分の気持ちがそのまま絵になってしまったことに驚き、それ以上に、先生がそれを「東シナ海」だと指摘して下さるまで気づかなかった自分にすっかり嫌気がさしてしまった。
 自画像に取りかかる直前、この一枚目の絵が脳裏に浮かび、絵を描くのが怖くなった。小手先の芸にばかりこだわり、一度も本物の絵など描いた例がないことをもう知っている。ましてや、鏡に映った自分の暗くて厳しい表情と正面から向き合わなくてはならないと思うと、憂鬱になってしまった。実際、剃刀を使うときも目を合わせることのない自分の顔と相対する為に、多少身構えることが必要であったが、先生に頂いた言葉をきっかけにして少しの勇気を奮い起こすだけで、それは少なくとも自分を描いている間は怖くなくなり、自分をいろいろな角度から見つめる余裕も持つことが出来た。鏡は嘘をつかない。顔の表情と感情は想像以上に綿密に関係している。鏡に曝け出されたあられもない姿の自分の顔、そしてその表情と心情と真摯に向き合った。こうした上で、無作為に、と言う言葉が適当かどうかわからないが、ほとんどそのようにして手探り状態で自分を写し取ることが次第にできるようになっていった。気づいた時にはキャンバスの中には以前よりはるかにはっきりした影と形、いく分かの厚みを持った自分がこちらを向いていた。
 もう一つ、特筆しなければならないことがある。それは、自分を同じキャンバスの中に二人共存させたことである。自分の体は一つであって二つもない。しかし、両方とも同一人物を違う角度で描いただけなのだから、正面を向いている自分と後ろを向いている自分、この二人は確かに同一人物だ。逆に、自分という人間は果たして二人だけなのだろうか。これは大きな間違いのような気がする。毎時間鏡を見る回数だけ、異なった自分の内面が立ち現れてきた。代表的な自分は彼ら二人であるが、他の多くの自分達も自我を構成しているであろう。
 高校一年生にして、初めて真剣に自分と向き合えたことだけでも僕にとっては大きな収穫だった。祖母が昔から口にしていた「勉強になったか」の勉強と先生のおっしゃっていた「一生物の勉強」の勉強とはこういうことかと身をもって感じられた。ほんの小さな勇気で大きく変われることが解った今、これをきっかけにしてもっと多くのことを勉強したいと思っている。